隣の田中さん
人材立国ニッポン@

ヒト・クローン胚導く”魔法の手”
小学校の成績はほとんど「2」
教授とケンカ・・・それでも実験

■若山 照彦さん

 阪神大震災から八年を迎える神戸。この街に昨年、クローン研究で世界をあっと言わせた男がやってきた。
 政府が七十億円を投じて神戸に建設した理化学研究所「発生・再生科学総合研究センター」のチームリーダー、若山照彦(35)。ハワイ大留学中の一九九七年に
世界初のクローンマウスづくりに成功し、英科学誌「ネイチャー」の表紙を飾った。三十一才で同大助教授就任後ノーベル賞級の学者を輩出するロックフェラー大学助教授、米バイオベンチャーACT社と、活躍の舞台を次々と変え、クローン研究の最先端を走ってきた。
 ■   ■
 三十代なかばにして華やかな経験の若山は、東大や京大、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一(43)の母校、東北大といった日本を代表する難関校の出身ではない。
 優等生でもない。ごく普通の子供だった。それどころか、「小、中学校時代は落ちこぼれだった」という。
 神奈川県横須賀市出身。三浦半島の中心部で豊かな自然に囲まれて育った。学校から帰ると野山を駆け巡り、ウサギを追いかけた。川でつかまえたオタマジャクシやサンショウウオを飼うのが趣味だった。六年間、一度も勉強したことがなかった。小学校の成績は五段階でほとんどが2。六年間を通じて、4は理科の一つだけ。
 小学校の卒業文集に寄せた将来の夢は「科学者」。SF小説が大好きで、ミュータント(突然変異体)やクローンに魅了された。いつか自分も、そういう世界に身をおきたいと願った。
 地元の公立高から一浪して茨城大学農学部に合格したが、周りを見回せば、やはり自分がビリだった。科学者への夢をあきらめかけていた矢先に大きな転機が訪れた。
 大学卒業を目前に、ささいなことかで担当教授とケンカした。研究できる場を自分で探し、近くにあった農水省家畜衛生試験場にマウスの世話係として潜り込んだ。これがきっかけで東大大学院、ハワイ大留学へと面白いように人生が動き始めた。「僕がいまあるのは、教授とケンカしたおかげ」と語る。
 ■   ■
 九七年二月、ハワイ大学に大きなニュースが飛びこんだ。世界初のクローン羊「ドリー」の誕生。衝撃を受けた若山は「自分もやってみたい」と、教授に反対されながらも実験を始めた。
 不可能とされていたクローンマウスを誕生させた手腕は”マジック・ハンド”(魔法の手)といわれる。ACT社による世界初のヒト・クローン胚づくりにも若山の技術が欠かせなかった。クローン技術の発展で、拒絶反応がない臓器や組織づくりなど再生医療への応用も期待される。
 マジック・ハンドで米国人同僚をうならせた若山も、田中同様、英語が苦手だ。だが、「英語の論文が読めないから過去の成果にとらわれない。論文に書かれている”常識”に左右されずに自由なテーマに挑戦できる」と、英語嫌いを自分の強みに変えていった。
 牛や豚より難しく、成功の確率はゼロに近かったマウスのクローン研究にも平気で挑んだ。思いつきで、マウスの卵子にウニの精子を移植したこともある。
 「東大や京大出身の優秀な人に勝つには、だれもやらないことをやるしかない。失敗しても当たり前。その分だけチャンスもおおきい」
 世界のエリート研究者と肩を並べるまでになった今でも「頭のいいやつに負けたくない。決して負けない」と、強烈な自身と自負を隠さない。
 だからこそ、久しぶりに戻った日本の子供たちの理数離れが気になる。勉強はできなくても好きなことだけに熱中し、科学の楽しさを知った経験から「好きな分野で才能を伸ばせる環境を与え、好きなことを存分にやらせて可能性を広げてあげてほしい」と訴える。
 六年におよぶ米国生活を切り上げ、引く手あまたの若山が新天地として選んだのは、出口の見えない不況のさなかににある日本だった。
 「常に不可能と思われていることに挑戦したい。それが僕の目標であり生涯のテーマです」
 若山の選択は自信をうしないかけた日本人への応援歌のようにも聞こえる。

写真=新たにスタートした神戸での研究に自信を見せる若山照彦さん=理化学研究所

=敬称略(記者:産経新聞社 中曽根聖子)

平成15年(西暦2003年)1月1日(水)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンA

インテル”頭脳”生みの親
会社員の意地・・チップに家紋
「来た仕事は拒まず、まず形にしろ」


■嶋 正利さん

  本来ならそのビル・ゲイツ(マイクロソフト社会長)と並び称されていたかもしれない。「伝説の技術者」は、粉雪の舞う福島県の会津磐梯山のふもとで、学生たちに囲まれていた。
 嶋正利(59)。福島県立会津大学コンピュータ理工学部教授。
 二十代も半ばだった一九七一年、設立されたばかりの米国の半導体メーカー「インテル」でコンピューターの心臓部にあたるマイクロプロセッサー「4004」を
世界で初めて開発した。指先ほどの小さな回路に大型コンピューターに匹敵する計算能力をもたせることで、コンピューターの小型化時代を到来させた。いわば、パソコンの”生みの親”である。
 「小さいものを大きくするのは簡単だが、大きいものを小さくするには全く別の視点が必要。だれもしていない研究をする毎日が楽しくて仕方なかった」
 日本の電卓メーカーのサラリーマンだった嶋は、OA機器の共同開発のためインテルに派遣された。当時は電卓やレジスターなどの製品ごとに機器の内部をつくり替えねばならなかったが、嶋は発想を変えてみた。
 あらかじめメモリー(記憶装置)にプログラムを入れ、その手順に従って計算する演算機能をLSI(高密度集積回路)にまとめたらどうか。プログラムだけを取り換えればさまざまな機器に応用できる−。現在のパソコンに通じる基本的な原理だ。
 まだ、サラリーマン研究者の特許や知的財産権が今ほど叫ばれなかった時代。インテルを世界的な大企業に押し上げた嶋の功績が表に出ることはほとんどなかった。
 ■   ■
 「4004」の開発から三年後の七四年、世界発のパソコン「アルタイル」が米国で発売された。内部に搭載されたのは、インテルに引き抜かれた嶋が、新たに開発した「8008」。縦三ミリメートル、横四ミリメートルほどのチップの隅には、顕微鏡ですら確認できないほどの小さな印が刻まれていた。丸に三本線の入った嶋家の家紋だった。
「開発途中から、チップの隅に自分のためのスペースをこっそり残しておいた。サラリーマン研究者の意地のようなものだった」
 静岡県生まれ。東北大学理学部化学科を卒業したが、畑違いの分野に進んだのは理由があった。中学三年のとき、化学好きが高じて、ロケット遊びの火薬を調合中に爆発事故に遭い、右手三本の指を失ってしまった。
 「左手しか使えなかったからこそ、創造性をつかさどる右脳を発達させるのに役立った」。今ではそう笑うが、化学業界の不況とも重なり、就職には苦労した。一時は親元に帰り、静岡県警で鑑識課の職員として殺人現場に出向いたこともあったという。
 「お金や地位を考えたらいい仕事はできないし、人間関係もぐちゃぐちゃになっていたはず。大金が転がり込んでいたら、ろくな人生を送れなかったと思う」
 嶋にとっては、パソコンの奥深くに刻まれた家紋が勲章であり、大勢の外国人研究者と論議した日々こそが、かけがえのない財産なのである。
 だからこそ、自身の業績に対して「自分たちも同じことを考えていた」などと負け惜しみを言われることには、とことん反論したいという。
 「卒業する学生たちに言うんです。口先で言うだけならだれでもできる。来た仕事は拒まず、まず形にしろ、と。相手が期待する半分の時間でそれをこなせば、また新しい仕事が来る。繰り返すうちに必ず創造的な技術者になれる、とね」
 米国のインテル本社には、マイクロプロセッサー「開発前夜」の古ぼけた写真が飾られている。そこには白人の大男たちに交じって、一人の小柄な日本人がひっそりと写っている。

写真=会津大で学生を指導する嶋正利さん

=敬称略(記者:産経新聞 皆川豪志)

平成15年(西暦2003年)1月3日(金)産経新聞掲載



隣の田中さん
人材立国ニッポンB

超低公害車へ水素を吸う「ナノ」
up to youで目覚める
「オリジナリティーは作る道具から」


■西野 仁さん

 大阪ガス開発研究部の副課長、西野仁(40)を訪ねると黒い粉が入っている瓶を手にしていた。
 ススにしか見えない粉の正体は「カーボンナノチューブ」。粉のひとつひとつは直径数〜百ナノメートル(一ナノメートルは百万分の一ミリメートル)、長さは一〜数マイコロメートル(一マイクロメートルは千分の一ミリメートル)。黒い粉は、炭素(カーボン)だけでできた超微細な管だった。
 首相も旗を振る、排出するのは水蒸気だけという究極の低公害車「燃料電池自動車」。燃料電池は酸素の水素の反応で発電する。取り扱いが難しい水素の貯蔵法が課題だが、この黒い粉が実用化のカギを握る新素材として、自動車会社にも注目されている。
 「カーボンナノチューブ」自体はNECの研究者が発見したが、「私の開発したものは従来のものより水素を吸うんです」。
 西野の開発したものは炭素が不規則に配列した非結晶構造。実験の結果、結晶性が高かった従来型は重量比で1%以下しか水素を吸い込まなかったのに対し、西野のものは3%以上と、吸蔵能力が高い。この
世界初の「新型カーボンナノチューブ」を燃料タンクに満たせば、国が掲げる実用化の目安の六割程度の水素を貯蔵できるという。
 ■   ■
 大阪・河内長野市生まれ。一浪後、京大工学部に進学。大学院の修士課程で学んだ後、「自由な研究ができそう」と大阪ガスに入社した。
 小学校の六年間は大好きな理科だけは三段階のA。それ以外はBかCだった。「地方公務員の父が『京大だったら下宿させてやる』という。家から出たかったので一生懸命勉強した」と笑う。
 話を入社後に戻す。世界初の「新型カーボンナノチューブ」の転機となったのは、平成五年から一年間の米カリフォルニア大留学だった。のちに筑波大名誉教授の白川英樹とノーベル科学賞を共同受賞した同大教授のアラン・ヒーガーのもとで学んだ。
 「オリジナリティーあるものを作りたければ、まずそれを作る道具から作れ」。ヒーガーからこう教えられた。「up to you」(君次第だ)ともいわれた。
 目的のために、まず道具から作り、それを大切にする。大学院でも会社でも習わなかったことだった。日本との違いを感じた。
 「カーボンナノチューブ」を合成する電気炉や水素の吸蔵を解析する装置は自分で「概念図」を描き、専門メーカーと共同でオリジナルのものを作った。
 上司の中村裕司(53)は西野について「自分の信じることは何度も繰り返す。研究には偶然や失敗も多いが、それらも新しいことに使えるのでは、と見逃さない。貪欲(どんよく)だ」と語る。
 「新型カーボンナノチューブ」も周囲の懐疑的な意見に「絶対大丈夫。やらせてほしい」と頼み込んで進めた研究から生まれた。完成まで三年かかった。
 ■   ■
 職場ではいつもうぐいす色の作業服姿。「同じサラリーマン。単純にうれしかった」。西野もまた、青い作業服のままで会見に臨んだノーベル化学賞の田中耕一(43)に励まされた日本の裏方技術者のひとりだった。
 田中は実母の死を機に「人の命を助けるのに役立ちたい」と純粋な動機で研究に打ち込んだ結果が世界最高の賞につながった。そのエピソードにあらためて自分を戒めたともいう。「自分のやりたいこと、最初の気持ちを忘れずに持ち続けていないといけない」と。企業の技術者は年をとると研究から遠ざかる。西野にも、残された時間はそう多くはない。
 やりたいことは。西野に尋ねると「田中さんみたいにグッとくる話はないけど・・」と照れながら「何げなく使っているものの中に自分が発明した”それぞ”という材料、真髄を残したい」。力強い返事だった。
 重量五十キログラムの「新型カーボンナノチューブ」で五キログラムの水素を貯蔵でき、五百キロメートルの走行可能な段階が目標。「何年か後に、あの車のなかに僕の開発した新型カーボンナノチューブがはいっているんだよ、と胸をはって言ってみたい。それには水素の吸蔵レベルを高めないと」。こう話すと、西野は超微細な「ナノ」の世界へ戻っていった。

写真=黒い粉が入っている瓶を手に「カーボンナノチューブ」の説明をする大阪ガスの西野仁さん

=敬称略 (記者:産経新聞社 斎藤 浩)

平成15年(西暦2003年)1月4日(土)産経新聞掲載


隣の田中さん
人材立国ニッポンC

犬の気持ち「バウリンガル」
「僕の頭の中には1000以上の夢があります」
おもちゃが”家族”を増やし


■梶田 政彦さん

 「金髪はいらない」と言ったのは、どこかの球団のオーナーだったが、この会社では金髪のサラリーマンがホームランを打ち続けている。
 おもちゃメーカー「タカラ」(東京)の梶田政彦(41)。昨年(平成14年)の九月発売以来、わずか三カ月で十五万個を売り上げた世界初の犬語翻訳機「バウリンガル」の開発責任者である。
 肩書きはライフカルチャー事業部バラエティ課次長。「なんちゃってシリーズ」と呼ばれるバナナ型受話器や、蛇口にライオンの顔を取り付ける「ゴージャス風呂」、百七十万台の売り上げを記録した「家庭用ビールサーバー」など数々のヒット商品を生み出した。
 「簡単に言えば、おとなが楽しめるおもちゃを開発する仕事。肩書きが長いので社員からは『なんちゃって社長』と呼ばれています」
 本人はひょうひょうとそう話すが、平成十一年の就任当時、同社の業績は他社のコンピュータゲームなどに押されて最悪の時期。「子供だけでなく大人もターゲットに」は社運をかけた大プロジェクトだった。一連の”笑える”ヒット商品は、売り上げに大きく貢献しただけでなく、社内の沈滞ムードの一掃にもつながったという。
 髪を染めたのもそのころで、「大勢の社員の中に埋もれたくなかった。むしろ目立つことで自分にプレッシャーをかけたかった。オレンジ色にしたこともありましたよ」。上司からは「やってしまったことは仕方ない」と言われただけという。
 技術系やデザイン系の大学も出ていない。都内の高校を卒業後、冷凍食品会社の営業などを転々とした。タカラの納入問屋に勤めていた平成三年に途中入社。当初は販売担当だったが、「目標が達成できず、自分で買ったこともあった。現場の声をもっと商品開発に生かしたかった」。
 バウリンガルは首につけたマイクが鳴き声を拾い、犬の気持ちを飼い主の無線機に文字で伝える仕組み。ただ、「単なるおもちゃに見られたら売れないと思った」。
 開発の基礎になったのは、ウサマ・ビンラーディンの声を分析したことでも知られる日本音響研究所や都内の動物病院と共同で作った犬の鳴き声のデータベース。
 犬を怒らせたり、楽しませたりしながら人気のある十五犬種から約二千の声を集め、「威嚇(いかく)」、「要求」など六つの感情に分類したが、それを人間の言葉にどう「意訳」するかが、最も難しい作業だった。開発チームでは全員が犬になり切り、鳴き声だけで会議をしたこともあった。
 「いくら吠(ほ)えても自分の言いたいことが相手に伝わらない。犬の苦労を初めて知った」
 その結果、『好き好き』『一人にしないで』『ごくらく、ごくらく』など犬の微妙な気持ちにまで踏み込んだ二百語が完成。「翻訳精度90%以上」と自信を持つ。最後まで『解析不能』の言葉については、「『あれれ』『ひみちゅ』で勘弁してもらいました」。
 ■   ■
 梶田の放った「超特大ホームラン」は海を越え、昨年、もう一つのノーベル賞をもたらした。「とっぴで風変わりな研究」に贈られる「イグ・ノーベル賞」。とはいえ,他の受賞者はいずれも大学の研究者。梶田はハーバード大学で行われた授賞式にも出席し、米「TIME」誌の
「二〇〇二年最大の発明品」にも選ばれた。
 今年は韓国でハングル版が発売され、いずれは英語版でペット大国の米国や欧州にも進出する予定。そのマーケットは計りしれないものがある。
 「飼い犬の反応を通じて親子や夫婦の会話が増えた」「一人暮らしがさみしくなくなった」。今、タカラには消費者からの声が相次いで寄せられている。梶田らの生んだ小さな「おもちゃ」が、言葉を持った新しい家族を増やした。それは、幼いころに見たSFマンガの世界と言ってもいいかもしれない。
 「おもちゃ開発の基本は子供のころの夢を実現することだと思う。まだまだ、僕の頭の中には千以上の夢があります」
 金髪頭をなでながら、梶田はいたずら小僧のように笑った。

写真=「イグ・ノーベル賞」受賞作「バウリンガル」を前に語る梶田政彦さん

=敬称略(記者:産経新聞社 皆川豪志)

平成15年(西暦2003年)1月5日(日)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンD

アトムから52年 走る、跳ぶ、けるロボ
家庭で活用・・でも「心」は不要
「2050年、サッカーで人間チームに勝つ」


■森 康夫さん

 二〇〇三年四月七日。鉄腕アトムの誕生日がやってくる。作業用ロボット一辺倒の欧米に対し、日本だけが人間型(ヒューマノイド)ロボットの開発が盛んに行われている。手塚治虫がアトムを描いて五十二年。研究者にアトムのDNAが刷り込まれているからだ。
 「漫画のようなロボットをつくりたいという夢が頭から離れなかった。子供心にアトムは無理だと思っていたが、鉄人28号なら可能だと思っていましたよ」
 ベンチャー企業、ロボス社長、森康夫(63)は昭和六十二年、ガラス容器メーカーを退社し、ロボット製造の会社を興した。訪ねたオフィスは名古屋市中心部のマンション。最先端テクノロジーの固まりであるロボット産業とはほど遠い感じがした。社員は四人だけ。白っぽいオフィスの机で伸長60センチメートル、体重16キログラムの「KOZOH(小僧)」が待っていた。
 ■   ■
 森はサラリーマン時代、エンジニアとして工場のオートメーションラインやオペレーターのシステムなどの製作に携わっていた。会社設立の話をすると、周囲の人は驚いた。だが、森は、仕事を通じて知り合った大企業の開発部門の研究者に劣るとは思えなかった。成功を信じていた。 「自分にもできるという自信はあった。産業ロボットもおもしろかったけど、
やっぱり人間型でしょう。ねっ
 森は、平成十二年から岐阜県が主導して開発した二足歩行ロボット「NAGARA」のプロジェクトに参加してノウハウを学んだ。一歩一歩、重心はどこに移動するのか。足の裏はどうすればいいのか・・・。数千万円をかけて改良を重ね、昨年夏に完成したのがKOZOHだ。一体の価格は一千万円。大学の研究室などへの売却を目的にしている。「他社のロボットとの差別化もあるが、心とか知能とかの小ざかしいロボットよりもストレートに世界一の運動系を目指す。走る、跳ぶ、ける。人間ができる運動は全部可能にしたい」
 目のCCDカメラと画像処理システムでボールを確認。DCモーターと差動減速機を埋め込んだなめらかに動く足でドリブルしてシュート。サッカーKOZOHである。
 現段階では股(こ)関節の間隔が短いため、一秒に二メートルのスピードしか出ないが、今年中にウサギ跳びを披露できる予定。次は走ること。「人間だと何げない動作でもバランスの取り方が難しい。ひざの間接がもつか」と心配そうに足をさすった。
 しかし、不可能ではない。NAGARAは昨年七月に福岡で開かれたロボットのサッカー大会「ロボカップ2002」のヒューマノイドリーグで最優秀選手に選ばれた。試合はPK戦方式。キックの際にロボットが倒れてしまうので補助する人間付きだが、見事なPKを決めた。
 ロボカップの目標は二〇五〇年に人間チームに勝利すること。「大丈夫です。難しいのはボールに対する反応と判断ですが、クリアできる」と森は断言する。同大会のロボットを使わないシミュレーションリーグでは各選手は個々のソフトで独自に行動し、オフサイドトラップまでかける。この知能に運動能力が備われば・・・。
 ■   ■
 KOZOHをまえに話をしているうちに「このロボットはかわいい」と思えてきた。このことを森に伝えた。
 「そうなんですよ。だから人間型は家庭で活躍できるロボット。生活の場にいても違和感がないでしょう。介護をするにしても、アームだけが動くロボットよりも柔らかいシリコンの肌をした二本足のロボットがしてくれた方が安心感がある。あたたかい」
 わが意を得たりと、森は語り始めた。
 だが、アトムまで進化させるのは反対という。「人の心を推量できるようになると、ロボットに気を使わなければならなくなる。それではロボットとしての役割を果たさない。人間に介護してもらってもいいわけでしょう。やっぱり鉄人28号が理想かな」
 頭の中のほとんどを、ロボット開発が占めている。街の雑踏に立っても、人波に見とれる。「どうしてみんな滑らかに歩くことができるのか」と、人間の体の不思議を再認識するのだという。

写真=「KOZOH」を開発した森康夫さん。夢はドリブルするサッカーロボットだ

=敬称略(記者:産経新聞社 将口泰浩)

平成15年(西暦2003年)1月6日(月)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンE

ひらめきのナショナリスト
「日本人でも世界に貢献できることを証明したい」
ベンチャーで純国産新薬


■森下 竜一さん

 研究室には電話がひっきりなしにかかってくる。大阪大大学院助教授で、自ら創業した遺伝子治療薬開発会社「アンジェスMG」の取締役でもある森下竜一(40)は忙しい。受話器を握りながらパソコンを操り、白衣を着たかと思えば、スーツ姿に戻る。「三十代のときのように研究に没頭できる時間はなくなった」
 森下の研究をもとにア社が開発している
血管再生の遺伝子医薬品は日米欧で注目されている。同社は昨年九月、大学発ベンチャーでは初めて東証マザーズに上場した。
 ■   ■
 きっかけはヤマ勘だった、森下は言う。
 平成五年秋、留学先の米・スタンフォード大の研究室で、日本語が読みたくて取り寄せていた日本の医学雑誌のページをめくる手が止まった。阪大の大先輩である教授の中村敏一(57)らが
発見した遺伝子「HGF」(肝細胞増殖因子)の論文を読んでピンときた。
 「これを使えば、世界に通用する純国産の新薬を作れる」
 森下の専門は、動脈硬化などでだめになった血管を再生させる遺伝子治療だ。HGFは肝細胞を再生させる遺伝子。血管再生に使えると考える研究者は世界のどこにもいなかった。森下は逆にチャンスだと思った。
 目をつけたのはHGFの形態だ。「の」の字のような形をしたデンマークのパン菓子に由来する「クリングル」と呼ばれる構造。「この形なら血管をつくるのに何らかの作用をすることは分かっていた。何となくいけるような気がした」
 当時、血管再生の分野で先行する米国では「VEGF」(血管内皮増殖因子)と呼ばれる遺伝子を使った血管再生治療の臨床研究が始まろうとしていた。ただ、むくみなどの副作用もあり、森下は「まだ米国に勝てる余地はある」と考えた。
 すぐに帰国して母校に中村を訪ねた。「HGFを一緒にやらせてもらえませんか。血管再生の薬にできると思うんです」・中村は軽く応じた。「いいよ。頑張って」
 「僕なんかヒラの研究員。あつかましいとは思ったけど、先生は研究者仲間と考えてくれた」
 ■   ■
 「田舎の秀才」と、自分を表現する。岡山県で医師の息子として生まれた。同級生に誘われ東京の名門、武蔵高校に進学。両親の勧めで阪大医学部に入学した。都会で高校、大学と進むにつれ、成績はさがった。
 「大学ではとにかく遊んでしまった」。昭和六十二年、卒業時の医学部での成績順位は百二十人中九十三位。変わったのは平成三年、スタンフォードに留学してからだった。
 人工遺伝子を使った血管治療の論文を書いて教授に見せたときのことだ。日本でよくあるように学会などでの発表を相談するつもりが、意外なことを言われた。「論文を出す前に、まず特許事務所に持っていけ」
 言う通りにすると、二、三カ月の間に製薬関係のベンチャー企業の社員が続々と現れ、いつから臨床に使うかといった具体的な話を持ち込んできた。「直接社会に役立とうとする姿勢と、特許などでしのぎを削る厳しさを同時に学んだ」
 反面、自身を「ナショナリスト」と言うようになったのもこの時期だ。仕事が早く、アイデアも豊富な森下はよく褒められた。しかし、その言葉が気に入らなかった。
 「君は日本人離れした才能を持っている」
 ■   ■
 六年四月。帰国する森下に、教授は警戒心を隠さなかった。「ここにいれば教授にもなれる。帰って何をするんだ」。HGFのことを話すと、教授はほっとしたようだった。「なんだ、肝細胞じゃないか。それはお前の自由にやればいい」
 三年後、教授の予想に反して、森下らの実験で、HGFがVEGFを上回る血管再生の治療薬になることが証明された。十一年、米国で学んだように製薬会社の元社員らを集めて自らベンチャーを創業した。発見、開発、販売。先端医療の分野では珍しい、純国産の新薬が生まれつつある。
 「日本人でも世界に貢献できることを、この手で証明したい」。HGFの新薬は二年後には販売できる見込みだ。森下自身もこの春、教授になることが内定している。

写真=若い研究者を指導する森下竜一助教授。「教えてもらおうとするだけでは自分の発想は生まれない」と話す=大阪府吹田市の大阪大医学部

=敬称略 (記者:産経新聞社 三笠博志)

平成15年(西暦2003年)1月7日(火)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンF

痛恨の記憶立ち直りバネに
「努力したら何でもできる」
樹木の生命力 経験で応用


■濱野 満子さん

 ヒノキやヒバから抽出した樹液を使って新幹線を洗う。そんなユニークな洗浄剤を生み出している会社がある。
 フイルドサイエンス社(北九州市門司区)。チャレンジ精神豊かな社長の濱野満子(55)は「なぜ樹液で列車が洗えるのか。答えは後回しですよ。いろいろ試して洗浄力と安全性が実証されれば十分です」と、あっけらかんと笑った。
 「とにかくやってみること。私もこれだけできたんだから、努力したら、何でもできますよ」
 不況にすくんでしまっている日本社会全体への「喝」のようだ。
 ■   ■
 十九歳で嫁いだ先は製材会社だった。山の木を見上げてばかりいたが、離婚後、木の下に間伐された木を見つけた。
 「環境問題」の言葉も一般的ではなかった当時、伐採されたまま放置された間伐材には使い道がなかった。
 「これを何かに利用すれば、山林の荒廃問題も間伐材の放置もなくなり地元の人に喜ばれる。今でいう環境問題の解決に役立ちたいと考えた」
 木と付き合ううちに、木の持つ力を知った。山に入ると、ヒノキやスギの林には下草が少ない。そういえば、ちまきにはササを巻く。桜もちにはサクラの葉が使われる。
 「なぜか? 今までそういうものだと簡単に考えていたことが、すべて共通の現象だと気づいたんです。他の種の植物を寄せつけない性質、殺菌作用、消臭。木の持つ化学的な力でした」 そこから間伐材の利用方法を思い立った。
 まず、木の樹液を抽出するための工場を、地元の人の協力を得て長野県の山中に造った。
 全国各地の民宿を泊まり歩き、
日本人の知恵と経験に基づいた植物のさまざまな使い方を拾い集めた。これらをヒントに、三十五種類の樹液をさまざまな量で調合して畑にまいてみた。土壌改良に使えないかと考えたのだ。するとある配合比率と希釈の仕方で、カボチャほどもある巨大なジャガイモが取れた。
 配合比率と薄め方で、さまざまな効果が得られた。木から落ちても枯れにくい葉が育った。酢と小麦粉と重曹を混ぜると強力な洗剤になった。痴呆(ちほう)が進んで暴れる老人がおとなしくなった。新幹線の洗浄剤も試行錯誤から生まれた。自然の樹木の持つ生命力のおこぼれにあずかり、化学物質はいっさい入れなかった。科学者ではない。経験が次から次へとアイデアを生んだ。
 「考えつく限りのことを試みて、配合のレシピを増やしていきました。平成に入ってからもしばらくは『いつまでそんなことをやっているの?』と冷やかされました。でも今は『本当によいところに目をつけたね』『ようやく時代が追いついてきたね』といわれます」
 小渕内閣が平成十一年に打ち出した官民連携の技術開発助成事業「ミレニアムプロジェクト」に応募した。
 「環境型生活社会を構築するための植物由来揮発性生理活性物質の利用」
 この提案が採用された。現在、九州大学などと他感作用(アレロパシー)といわれる他の植物の成長に対する抽出液の影響について研究を進めている。今年、その成果がまとまる。
 「現在、わが社の抽出液は農業のほか、鉄道会社や食品会社、老人ホームなどさまざまな分野で利用いただいている。でも金もうけをしたくて始めたわけではないという初心を忘れずに、これからも
想像力を発揮して社会の役に立ちたい」
 ■   ■
 昭和五十六年に、幼い三男を病院の輸血ミスで失った。
 「子供のことも考えていたつもりでした。けれども当時は、子供の入院中も仕事のことが気になるほど、仕事一辺倒でした。死なれて初めて、かけがえのない命を失ったことを、思い知りました」
 痛恨の記憶だった。人の命にかかわる仕事をしたいと思った。「人の役に立ちたい」と、心底から思った。それが初心であり、原点でもある。そして行き着いたのが、樹木の持つ生命力の不思議だった。

写真=さまざまな力を持つ受益を前に話す濱野満子さん=北九州市のフイルドサイエンス社

=敬称略 (記者:産経新聞社 藤浦 淳)

平成15年(西暦2003年)1月8日(水)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンG

未経験からの挑戦
技術者魂に火

「追い詰められたら方が知恵が出る」
リニアの「クエンチ」克服


■寺井 元昭さん

 山梨県都留市にあるリニアモーターカー山梨実験線を平成九年十二月二十四日、青いラインが入った流線型の車両が駆け抜けた。
 時速約550.2キロメートル設計最高速度を記録した瞬間だった。
日本にしかない超伝導磁気浮上式リニアモーターカー実験の最大の壁、「クエンチ」この現象と戦い続け、克服した一人であるJR東海のリニア開発本部主幹、寺井元昭(44)は、この光景を格別の思いで見守った。
 時速500キロメートル、東京−大阪間を約一時間で結ぶリニアモーターカー。宮崎実験線から、複線でカーブや勾配(こうばい)があり、より実用的な山梨実験線の建設に移る昭和六十二年から平成三年にかけ、開発は表向き順調に見えた。しかし、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)やJR東海の研究者らは、ずっとクエンチと戦っていた。
 ■   ■
「クエンチ」走行中に、超伝導磁気浮上式リシアモーターカーの命ともいえる超伝導状態が突然崩れる現象だ。昭和六十二年、宮崎で実験中に初めて起こった。超伝導は超低温で初めて磁力が発生する。車体に取り付けられた超伝導磁石、つまり電流が流れるコイルのどこかで発熱現象が起こってしまうのだ。
 原因は一向に分からなかった。クエンチは時速350キロメートル前後で頻発した。車速を上げられない。このままでは時速500キロメートルでの営業運転なんて望むべくもなかった。
 国鉄に入社後、新幹線の車両設計に携わっていた寺井が鉄道総研宮崎実験センターへ出向したのは、暗闇の最中の昭和六十三年三月だった。「リニアモーターカーや超伝導は全く知らない。これまでの経験も通用しない。不安でした」
 しかし研究を重ね、他の研究者の苦悩を知るうちに、寺井の「技術者魂」に火がついた。「気がついたら、クエンチのことが頭から離れなくなっていました。寝ても夢で考えていました」
 ■   ■
平成二年、山梨実験線の建設は、クエンチを完全に克服できないまま始まった。実験線での運行開始まで、もう時間がない。寺井は出向を終え、JR東海に戻っていたが、焦る気持ちは高まるばかりだった。
 「追い詰められた方が知恵が出る」。寺井の人生訓のようなものだという。このときも、窮地での
発想の転換に救われた。
 「みんな、『原因をつき止めねば』と思い詰めていた。でも分からない。では、無駄かもしれないが、とりあえず条件の違ういろんなコイルをたくさん作ってみて、クエンチの起こらないものはないか、原因究明につながるものはないか。そう考えたんです」
 十一種類のコイルを作った。主にコイルの太さを変えた。試しに、コイル表面の締め付け金具と、コイルの間の伝熱を防いだものも作った。
 平成三年も終わりが近づいていた。十一種類のコイルの実験も終わりにかかったころ、クエンチが起きないコイルが一種類だけあった。そこに答えがあった。
 それは、寺井らの予想を覆し、コイルと締め付け金具の表面の伝熱を絶縁したものだった。金具とコイルが擦りあって発熱していたのだ。
 「発熱はコイル内部で起こっているのではなく、発熱が生じていた表面、その場所自体で起こっていたのです。予想外でした。でもうれしかった」
 当時の喜びが克明によみがえったように、寺井は笑顔で語った。
 ■   ■
 寺井のリニアモーターカーの研究は、今も淡々と続けられている。「実際に営業するにはまだまだコストダウンが必要。それに向かって進むだけです」。山梨の実験線で試乗車らに説明したり、講演を行うようになった中で、改めて気づいたことがある。
 「子供たちが、リニアモーターカーが速く走るだけで、『すごい、すごい』って驚くんです。私たちにとっては当たり前のことでも、子供たちは新鮮に受け止める。その姿を見て、『この素直な心を忘れてはいけない』と思っています」

写真=「クエンチ」現象と戦い続けた寺井元昭さん=東京都中央区のJR東海

=敬称略 (記者:産経新聞社 広瀬一雄)

平成15年(西暦2003年)1月9日(木)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンH

日陰だった機械語翻訳
世界最速を実現

「コンピューター、事務処理の道具では宝の持ち腐れ」
「地球シミュレータ」開発


■北脇 重宗さん

 「地球シミュレータ」の開発者に会いに行く。「環境科学に変革をもたらす可能性がある」とタイム誌の二〇〇二年、「最高の発明品」にも選ばれた。
 世界最速のスーパーコンピューターで再現された「仮想地球 」。あらかじめ電話で「小さな体育館くらい」と言われていた。火山や氷河、砂漠、草原、海溝・・・。
 海洋科学技術センターの地球シミュレータセンター(横浜市金沢区)に到着。ソフトを開発した同センターの利用支援グループリーダー、北脇重宗(58)の案内で、現物を見る。横50メートル、縦65メートルのドーム形ではあったが、中はただ2メートルほどの箱が並んでいるだけ。山も海もない。大きなロッカールームだ。
 「あっ、想像していたのは違いましたか。勘違いする方が多くて。この前はウルトラマンの撮影に使いたいと言われましたよ」
 北脇はそう苦笑した。
 ■   ■
 ロッカー室のようでも中身はすごい。性能はスーパーコンピューターの数千倍の性能で最大性能四十テラ(1秒間に40兆回の計算速度)である。要するに一度に数十兆もの大量データ処理が可能な
世界一のコンピューター。北脇はこのうちコンパイラというソフトの部分を開発した。遠慮がちに説明を始めた。
 「人間の書いた言語をコンピューターが読める機械語に翻訳するプログラムでで連立方程式がたくさんあるようなものです。コンピューターは作るのは比較的簡単ですが、きちんと性能を出すのが難しい。コンパイラいかんで性能が一けたも二けたも違ってきます。
 京都大学工学部のころから、ソフト一筋に研究してきた。「当時はコンピューターといっても研究室にひとつあるだけ。ランプがついている感じで、昔の漫画そのものですよ。みんなはハードを作りたがったが、ぼくは機械とか工作が苦手で、机の上の計算が好きだった」
 しかし、ソフト部門は、長い間、日陰の存在だった。大学に残っても研究できるのは一人か二人。大学院終了後、NECに入社したが「コンパイラなんてハードと一緒に配布される添付品。稼ぎが悪いといつも言われて肩身が狭かったですよ」と話す。
 「コンパイラは商品」という認識が高まるまで入社後、十年以上かかった。コンピュータ語翻訳者の先駆者といってもいい。
 ■   ■
 地球シミュレータは、ベクトルプロセッサ八個で構成するロッカーのような計算ノード640台を高速ネットワークで結合。システム全体のデータ交換も1秒でできる。「こんな巨大コンピューターを抵抗なく使うようにするためにはソフトが重要」。地球シミュレータはナノテクや遺伝子工学の研究などに無料で貸し出しもしている。
 でも、なにが「地球シミュレータ」なのか。
 これまでのコンピューターでは地球を100キロメートル単位で分割して解析しており、解像度も大ざっぱだった。それが10キロメートル単位になり、数十の垂直データも同時に数時間で計算できる。それにより海洋のシミュレーションでは水温1度ごとに色が変わり、海流の動きがひと目で分かる。さらに垂直データが重要で、動きの複雑な大気のシュミレーションも可能になった。例えば、赤道付近の高温な空気が上昇、上空で北上を始め、北緯30度近くで下降、地表を南下する大気循環も研究できる。
 北脇は「シミュレータを使えば、1年分の気象予測や1日分の大気予測を数時間でできる。台風やエルニーニョ現象による局地的異常現象や地球の温暖化、地震などの地殻変動も予測できるようになった。仮想地球ですよ」と解説する。
 これが、タイムが「最高の発明品」に選んだ理由だった。
 コンピュータ語翻訳の第一人者は現代のパソコン全盛時代をどうみているのか。
 「事務処理の道具では宝の持ち腐れ。子供たちもゲームやメールだけでなく、どんどん計算してプログラムを組んでほしい。そうしないと、今後のコンピューター日本も危うい」
 世界最速のプログラムを組んだ男からの警鐘でである。

写真=一見、ロッカールームのような地球シミュレータの中の北脇重宗さん=横浜市金沢区の地球シミュレータセンター

=敬称略 (記者:産経新聞社 将口泰治)

平成15年(西暦2003年)1月10日(金)産経新聞掲載

隣の田中さん
人材立国ニッポンI

コンピューターに人の耳
情報処理能力の限界へ

「生涯現役の研究で若い人に刺激を」
転機は「じゃんけん」


■片桐 滋さん

 神奈川県厚木市。丹沢大山国定公園近くにあるNTT先端技術総合研究所の展示ホールには、A4サイズの写真パネルが飾られている。巨大なNTTグループの約三千人の研究者の中から最もレベルの高い社内研究者として選ばれた「R&D(リサーチ&デベロップメント=研究開発)フェロー」の取得者の肖像だ。
 昨年五月、その展示ホールに六枚目の写真が飾られた。
 
コンピューターに高能率、高精度で対象物の画像や音声を認識させることを可能にしたGPD(一般化確率的降下法)という方式を考案した、NTTコミュニケーション科学基礎研究所(京都府精華町)の知能情報研究部長、片桐滋(49)。
 人が交わしている会話は、音声を認識することで成り立っている。なにげなく行っていることだが、脳の中ではすさまじい情報処理が行われている。同じことを機械でできるか。それが研究の大きなテーマだ。「コンピューターに人の耳を持たせるようなものです。計算や記録では人間はコンピューターに及ばない。しかし、ものを見たり聞いたりした上で判断する能力は人間の方がはるかに優れている。研究を進めるほど、そのすごさについて考えさせられます」
 声で指示を出すだけで仕事をこなしてくれるコンピューターや、鉄腕アトムのような知能ロボットの開発にもつながる夢のある研究だ。
 ■   ■
 人生に、大きな転機があった。その一つは、じゃんけんだった。
 福島県出身。「本当は生物か地球物理学の分野に進みたいと思っていた」。しかし、東北大出身の恩師に「それじゃ将来ツブシはきかないよ」と言われて東北大学工学部電気工学科へ。ノーベル賞を受賞した田中耕一の先輩にあたる。
 勉強そっちのけで山歩きに夢中になった。四年生で研究室を選択。「回路や材料の研究は、なんとなく性に合わないな、と思っていたんです。数式ばかりの世界がなんか味気なくて。ちょっとソフトなことがやりたいと思って選択したのが、音声だったんです」
 ところが希望者は、定員より数人多かった。学生同士で話し合い、じゃんけんで決めることになった。「もし、あのときに負けていたら、まったく違った道に入っていたでしょうね」
 勝った片桐は大学院に進み、昭和五十七年、日本電信電話公社入り。六十一年からはNTTと深いつながりを持つ関西文化学術研究都市のATR(国際電気通信基礎技術研究所)に派遣され、最先端の音声認識技術の開発に取り組んだ。
 ■   ■
 「R&Dフェロー」はNTTが平成十一年四月から導入した、国際的にも認められた高評価の社内の研究者に与えている肩書。ノーベル賞候補者級の研究者もいるとされる。特別な手当がつくわけではなく、名誉職的なものだが、研究者の処遇を差別化し、優秀な人材が流出することを防ぐ目的もある。
 片桐を含め、これまでに六人が選出されているが、制度導入の趣旨とは裏腹に、すでに三人が関連の企業や大学教授などに転出している。
 皮肉なことに、フェローの認定によって人材としての価値が上がり、より加熱したヘッドハンティングにさらされた側面も指摘されている。
 だが、片桐は、NTTを離れるつもりはないという。
 「大切なことをじっくりと研究させてもらえるというのが最大の魅力。私のやりたいことと会社の目指す方針が一致していますので。私が重視したいのは、報酬よりも自由に研究させてもらえる環境なんです。性格によるのかもしれませんがあまり報酬を求めたいという気にはなりませんね」
 ノーベル賞の田中同様、企業と研究者の幸せな関係がここにある。定年というサラリーマンの宿命も持っているが、片桐はこう話した。
 「海外では生涯現役の研究者がたくさんいて、彼らが前線で研究を続けることで若い人たちにも刺激を与えている。日本の企業が目を向けなければならないのは、むしろ、この点じゃないでしょうか」

写真=NTTの「R&Dフェロー」に選ばれた片桐滋さん=京都府精華町のNTTコミュニケーション科学基礎研究所

=敬称略 (記者:産経新聞社 若狭 弘)

              ◇
 田中耕一さんは(平成15年1月)八日、大阪市内で行った講演でこう話した。「日本には、せっかくいい技術を開発しながら、埋もれて人材がまだまだ多い。(私の受賞に)夢を持っていただけたのなら、これほどの喜びはありません」 =おわり


平成15年(西暦2003年)1月10日(金)産経新聞掲載