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光の進み方
 
光の波動論の確立
 光の本体については長い間論争が続いた。光の波動論が一般に認められるようになたのは一朝
一夕ではなかったが,そのいきさつの概略を次にまとめてみよう。
 
(1)光の基本性質の発見史
 まず,光の基本的な性質の発見の歴史をまとめておく。
(a)直進性,反射の法則は古代ギリシャにおいて知られており,ユウクレイデス(前30年頃,ギ
リシャ)の著書にある。
(b)屈折の法則は1620年に,スネル(1591〜1626,オランダ)によって発見された。
(c)回折の現象は,グリマルディ(1618〜1663,オランダ)により,1660年頃に発見された。
(d)偏光の現象は,マリュス(1775〜1812,フランス)によって,1809年に発見された。
 
(2)光の粒子説と波動説
 17世紀になると望遠鏡や顕微鏡があいついで発明され,光学についての関心が高まってきた
が,それにつれて光の本性について論議されるようになった。デカルトは宇宙に何かが満ちてい
て,その圧力が光であると考えた。1667年,フックは宇宙に満ちた媒質をエーテルとよび,光
はその圧力ではなく振動であると考えた。
 ニュートンは太陽の光がプリズムによって多くの色に分れる現象(この現象そのものは中世か
ら知られていた)をくわしく分析し,個々の色の光は実体的なものであると感じた。そして光は
発光体から放射された実体的なものであると考え,光をただ波とだけ考えると直進することが説
明できないであろうと述べた。
 ホイヘンスは1678年に「ホイヘンスの原理」をたて,光を波と考え,それから反射,屈折の
法則が導かれることを示し,光の波動説の基礎をつくった。
 一方,ニュートンの後継者たちはニュートンの意見は粒子説であると解釈し,いろいろの仮定
を加えては,光の現象を説明した。これは,ニュートンの名声によって力を得,約1世紀はこの
方法が続いた。この方法は粒子説とよばれることが多い。その間波動説は影をひそめた。
 
(3)ヤングとフレネルによる波動説の復活
 18世紀になると,光の波動説が再びとなえられるようになった。
 ヤングはもとは医者であった。音の現象に興味をもち,音波と光との類似から出発して光は波
であろうと考えた。いわゆる「ヤングの干渉実験」を行なって,1807年発表した。この干渉現
象は,光を波と考えると直ちに説明できることを示し,波動説を復活した。
 当時のパリ・アカデミーは光の粒子説が主流をなし,回折の理論さえ粒子説をもとにしてでき
れば,粒子説は完成されると期待して,1817年に「回折の理論」を懸賞問題にとして出した。
フレネル(1788〜1827,フランス)はこれに応募したが,波動説から光の直進性を説明し,回
折現象の数学的な一般理論を展開し,特殊な場合について計算を行ない実験と合う結果が得られ
ることを示した。審査委員のうちの粒子説をとっていた一人のポアッソン(1781〜1840,フラ
ンス)が別の特殊な場合についてこの理論に従って計算し,フレネルに実験させた。その実験の
結果は,ポアッソンの計算によく一致した。そこで,アカデミーの初めの期待に反して,波動説
のフレネルに賞が与えられた。このようにして波動説の理論が整えられてきた。
 しかし,一般には,偏光については粒子説でないと説明できないと思われていた。それは,当
時は媒質内部の波動は当然縦波である(ひもの横振動などがあるがそれは内部の波ではない)と
考えられていて,縦波とすると偏光は説明できないからである。ヤングは1817年にとにかく光
を一種の横振動の波,すなわち横波とすれば偏光が説明できると論じた。フレネルは,媒質中で
の波動についての数学理論をすすめ,媒質中に横波も起こり得ることを示した。また,偏光現象
のくわしい実験を行ない,これらをもとにして横波説の理論をまとめ,1821年に発表した。
 このようにして,光を横波とするとすべての現象が説明できることが示され,波動説が復興し
た。
(4)波動説の決定実験
 われわれ今日の人間には,以上によって波動説ですべてが説明できるから,光の波動説が確立
されたと思われようが,当時の粒子説をとる人はいろいろな仮定をおいてこれらの現象をすべて
粒子的に説明していたのである。どちらかに決着をつけるには,両方で説明方法の違う現象をえ
らび,決め手になる実験をする必要がある。1つは光の屈折に関連して密な媒質中の光の速さが
空気中より大きいか小さいかをしらべる実験,もう1つはニュートン・環に関する実験である。
これらの実験によって波動説が決定的になり,それ以後は光の粒子説は影をひそめた。
(a)光の屈折
 光が空気中から水のような光学的に密な媒質にはいるとき,境界面の垂線に近づく角で屈折し
て水中にはいるが,これは波動説では光の速さが水中ではおそくなるためとしてホイヘンスの原
理から説明する。
 一方粒子説では,水にはいるとき境界面で垂直内方に引力がはたらいて内方に加速されるとし
て説明する。粒子説では水中では光の速さが大きくなることになる。
 したがって,水中での光の速さを測定し,それが空気中よりも速ければ粒子説,おそければ波
動説ということになる。このことはヤングが1804年に指摘していたことである。しかし,その
測定ができなかったのでどちらという判定は長い間おあずけになっていた。1838年にアラゴー
(1786〜1853,フランス)が水中での光の速さと空気中の光の速さとを比較する実験を試みた
が,はっきりした結果が得られなかった。まだ,地上での光速度測定の実験が行なわれていなか
った頃のことである。1850年,フーコーは室内での光速度測定に成功し,水中の光速度をも測
り,空気中の約3/4の速さであり,空気中よりおそいことがわかった。
(b)ニュートン環
 レンズと平面ガラスを重ねると色の環が見えるという現象は,フックにより1665年に見いだ
されていた。ニュートンはこの現象をくわしく分析し,明るい環に対する空気層の厚さが1,3,5,
・・・に比例し,暗い環に対するそれが0,2,4,・・・に比例することを発見した。そして,一般
に反射した光は一定距離進むごとに(次の面を)透過する性質と反射する性質とを交互にもつよ
うになると考え,ガラス面で反射した光が空気層の厚さによって再びレンズを通過したり通過し
なかったりするとしてこの現象を説明した。このように,くわしい分析を行なったので,この環
がニュートン環とよばれるようになったのである。
 一方,波動説ではレンズ面で反射した光と,ガラス面で反射した光との干渉として説明する。
エアリー(1801〜1892,イギリス)は,偏光を利用してレンズ面から反射してくる光を取り去
って調べることを考えた。粒子説ではそれでもニュートン環はできるはずであるが,波動説では
消失してしまうはずである。1831年に実験した結果では,環は消失して,波動説に合うことが
わかった。
(5)光の電磁波論
 マクスウェルは1864年に,電磁波が存在し得ることを導いたが,電磁波は横波であり,光速
度で伝わるなどの光のもつ性質をもっているので,光は電磁波であると考えた。これを光の電磁
波論という。電磁波の存在はその後,ヘルツによって見いだされ,今日では光が電磁波の1種で
あることに疑いの余地はない。
(6)エーテル仮設とその放棄
 フレネルは光の波をになうエーテルは,弾性体と考えていたので,横波しか現れないことの説
明に困り,無理な仮定をしていた。しかし,光の電磁波説の出現によりその困難は消えた。すな
わち,エーテルは電磁波をになうものとされ,そこに生じる波が電磁波であるが,それには横波
しかないからである。
 次に,エーテルはどこに静止しているかを調べようということから,地球の運動による光速度
への影響をしらべる実験が試みられたが,結局その影響を検出できないことがわかった。ここに
エーテル仮設には重大な矛盾があることになった。
 このような事態をみごとに解決したのが,アインシュタインの1905年発表した相対論である。
そこでは媒質の振動による波という考えを棄て,空間に存在する電場磁場が変化する現象と考え
て取り扱っている。1908年にリッツ(1878〜1909,スイス)は,エーテル放棄論を述べ,エー
テルだけのために幾多の無理な仮定をおかなければならないというのは筋違いで,むしろエーテ
ルを捨てるべきであると主張した。今日では,すべてそのような考えにもとづいている。
 
  
     ホイヘンス              ヤング                フィゾー
 
フィゾー(1819〜1896、フランス)光に強い関心をもち、地上実験によってはじめて光の速さ
を測定した。光を 9km 離れた2点間を鏡を使って往復させる。はじめのすき間を通った光が反
射してもどってくるときに隣の歯にさえぎられるように調節する。そのときの歯車の回転速度か
ら光が往復するのにかかる時間を計算した。
 ガリレオは、数 km 離れた山までの光の往復時間を測定しようとしたが、あまりに光がはやす
ぎ、この程度の距離では一瞬のことで測定できなくて失敗に終わっていた。
 
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