ジョージ・S・オームの人物像について
オームは,1789年,ドイツのエルランゲンで,錠前屋の子として生まれた。この地の大学で学ん
だが貧しくて中退した。しかし,1811年に学位を得,諸所で数学や物理学を教えた。30歳のときか
らケルンの高等中学校に移り9年間教えた(数学者ディリクレはそのときの生徒であった)。オーム
はここで研究に打ち込もうとしたが,暇も本もなくまた実験器具も不十分ななか思うようにならなか
った。しかし,錠前屋の父を通じて子供の頃身につけた腕前で,多くの器具を自分で作り上げた。
オームは1825年から1826年にかけて金属内での電流の流れ方についての重要な実験をおこなっ
た。1825年にボルタの電池を用いて金属の導電性を調べ,その報告を出した。このときは,ボルタ
の電池の不安定のために,見通しのよい結果は得られなかった。ポツゲンドルフに教えられて,熱電
対を用いると,温度さえ一定に保てば,一定の起電力が得られることを知った。そして,1826年正
月にこれを用いて実験し,オームの法則とよばれる結果を得,同年その報告を出した。ここに初めて,
電流,電気抵抗,電位差という概念が確立され,これによって動電気を定量的に取り扱えるようにな
ったのである。
オームはこの結果を本にするために休暇をとってベルリンやってきて,「数学的に取り扱ったガル
バーニの回路」という本を1827年にベルリンのリーマン書店から出版した。ところが,これはベル
リン大学ではたいへん不評であった。まず哲学部長であったヘーゲルとその一派からは,このような
計測的なことはつまらないこととみなされた。また科学者からも1826年の実験をもとにした論文は
あまり評判を得られることなく,1827年の著書では理論的に導いた推論が行なわれているので,後
者にもとづきこれは空想の産物に過ぎないとして,無視されてしまった。
彼の業績に対するこのような無理解は大きな打撃であった。この不評のためにケルンの職も辞さな
ければならなくなり,その後6年間ベルリンにとどまり,士官学校で週3回数学を教えた。ようやく
1833年になってニュルンベルクの工芸学校に奉職することになった。その頃からようやくオームの
研究が各国の研究者に理解され,尊敬を受けるようになり,1841年にロンドンの王立協会から賞が
与えられた。そして,1849年に,長年の夢であった大学教授(ミュンヘン大学の教授)になった。1854
年に65歳で亡くなった。
オーム